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リスク共生の観点から見たリスクコミュニケーション - Column - リスク共生社会創造センター|横浜国立大学

Column

Column 04 リスク共生対話
~リスク共生のこれまでとこれからを徹底的に語り合う~

第3回(2024.04.15 掲載)リスク共生の観点から見たリスクコミュニケーション

対談:野口和彦/澁谷忠弘/聞き手:伊里友一朗

澁谷
 個人的にはやはりリスク共生の最後のソリューションは、私はコミュニケーションだと思っています。リスクコミュニケーションをきちんと進化させることで、最終的なリスク共生学というのが完成するのではないかと個人的には思っています。

 要するに、現状のリスクコミュニケーションというのが、やはり何らかの形で相手を説得するだとか、説明するためのコミュニケーションになっています。特に日本はそうなのですが、海外も実は似たような状況にはなっているという認識をしています。その中で、やはりリスクコミュニケーションのリスクという考え方そのものと、コミュニケーションという考え方そのものをしっかりと合わせた形で浸透させていくというのが、おそらくリスク共生学のソリューションを提供するための最後のツールになるとは思っているのです。

 その中で、特にコミュニケーションのやり方と、コミュニケーションの場という2つが必要になってくると思っています。実は今まで我々のセンターでもNPOでも、コミュニケーションのやり方を一生懸命に議論してきましたが、コミュニケーションをする場というのをどのようにつくるのかというところも含めて考えていくというのは、大事な要素かなと思っています。

野口
 それは賛成です。リスクコミュニケーションは何の議論がなされていないのかというと、このコミュニケーションによって結論を出したいことと、そこの俎上に載っているリスクは必要十分か、ということが、ずっとほったらかしにされているのが問題です。つまり安全だということを言いたい時に、安全ということを言うためにどういうリスクをきちんと議論すればよいのか、というところが抜けたまま、「専門家が思っている、これをやればいいよ」、というリスクだけが押し出されてきて、だから安全と分かるでしょう、という感が見え見えのコミュニケーションになっているところが僕にとっては非常につらい。

澁谷
 それは多分、コミュニケーションのやり方が不十分だということに起因していると思います。

野口
 でも、コミュニケーションに載せる対象のリスク分析自体というか、コミュニケーションに載せる前のリスク特定の段階が非常にプアだという、根本的問題があると思います。

澁谷
 いや。そのリスク特定の段階からコミュニケーションをしていくというのは、実はISO31000の規格にも、コミュニケーションというのは関係者でやりなさいという形で書いてあるのですが、あれが機能していない、というのが多分一番大きな問題です。

野口
 そこまで含めてコミュニケーションの問題だと認識できれば、そのとおりだと思います。コミュニケーションの問題で一番大きいのは、建前は対話でも実質は説得が目的で主催者がステークホルダーの意見を聞こうと思っていない、というところが最大の問題で、そういうところから解決していかなければいけないというのが、おそらく同じ問題意識と思います。

 ただ、今リスクに直面している人たちは、自分の思っているリスクをどうすればいいかという、今抱えている問題自体の扱い方に対して回答を求めているところがあり、今、澁谷先生が話をしているのは、あなたが抱えている問題が全部ではないのだよ、というところまで含めて問おうとしているのです。一般の人たちは、そんなことはいいから、俺のこの問題はどうすればいいのか、というような、それ自体のソリューションを求めているという話があります。

 もちろん、コンサルタントとして見ると、そういう一つ一つの問題へのソリューションであっても、リスク共生に基づいて問題の前提を明確にする、という回答はあり得ます。それをリスク共生で解いたかのような形で示すことも可能です。でも、そのような演技をする必要性がどこにあるのか、ということです。

 欧米は、それを一つ個々の価値観や考え方と、全体の考え方を合わせるものとして、リスクコミュニケーションというような手法を導入して、リスクに関する意見を交わすことにより、そこの乖離(かいり)をなくそうとしています。例えば北欧などではある事業者がこういう計画を立てても、実は話し合いの中でノーという意見が多かったら撤回するということが、法律で決まっているところまであります。つまり、社会制度としての信頼性という枠組みをつくることで、個々のリスクの考え方の支配を吸収しようとしてきたという社会論があります。

 一方、日本の場合はこれまで何を行ってきたかというと、特に安全系の分野では客観的、科学的というところが非常に重視されているので、基本的には専門家の分析が正であるという認識になってきます。従って住民の人たちが何となく違う感覚を持っていても、それは不安論だという主観論に押しやられてしまいます。これまでのやり方の問題は、主観論より客観論のほうが優先すべきだという論調で、実は押し切ろうとしてきたところにあります。

 そういう社会だとリスクコミュニケーションもお互いの考え方を議論するのではなくて、客観論の説明ショーになってしまうのです。そういうところが制度として、違う意見を社会の制度の信頼性や、話し合うということの仕組みを信じさせることで、集団としてのリスクコミュニケーションをやろうとしてきた北欧や欧米の社会と比べて、日本の場合はいわゆる客観的考え方が正しいとか、多くの人に貢献する施策は正しいのだという、ある種の固定した価値観の中で、いわゆる一般市民の人たちの不安感や小数者の意見というものを、説得すべき材料として捉えてきているから、そこがマネジメントではなく管理の延長になってしまうのです。

そういうところがこれまでの日本社会のベースにあり、その中でリスクマネジメントの考え方でやろうよ、といっても、実は基本的ところのリスク決定構造が少しいびつだという問題があります。いびつと言っても、どちらの意見がいびつかは分かりませんが。それは相対的な問題ですが、いわゆるリスクマネジメントが前提としているコミュニケーションと社会で実施されているコミュニケーションが、少し違うのでうまく活用できていないという問題があります。

澁谷
 少し感じているのは、リスクコミュニケーションが欧米で本当にそこまで発達しているかというのは、私は少しクエスチョンを持っています。やはりもともとNRCなどで始めていたリスクコミュニケーションは、やはり説得というのが最終目標にあるような形のリスクコミュニケーションです。一方、北欧などでやられているリスクコミュニケーションというのは、いわゆる話し合いなどを繰り返していくということなのです。では欧米と一口に言っても、それぞれの国できちんとリスクコミュニケーションができているかというと、おそらくほとんどできていないというのが現状だと思うのです。

野口
 それはそうだと思います。アメリカの原子力は、おっしゃるとおり1970年代からリスクコミュニケーションという活動が始まったのだけれども、最初の20年間は、実はほぼ説得のためのコミュニケーションだったのです。それではうまくいかなかったということで、実はアメリカでNRC自体はやり方を変えたのです。それから説得から対話へということになって、その言葉だけは日本にも入ってきたけれども、日本の場合はやはりあくまでも説得ということになっています。

 おっしゃるとおり、欧米といっても国によって随分違って、僕が最後に北欧のことを話したのですが、北欧はなぜあれがうまく機能しているのかというと、ある種、直接民主制が機能していると思います。自分たちの考えが直接政策に反映されるという仕組みの中で、やはり国民自体が物事に関心を持って勉強をするという考え方が、日本とは随分違います。だから、その中でコミュニケーションというのをやろうというと、お互いのニーズがそこに集まってくるという構造になっています。だから、やはり日本の場合は何か大事なことは誰かが決めて、ある種、国民は観客だというイメージの中で、社会マネジメントというものに対してもやはり傍観者になってしまうところがあります。ここら辺が、実は社会マネジメントとしての話です。

 だから、日本においての社会マネジメントの問題点と、北欧における社会マネジメントの問題点はもちろん違います。従って、リスク共生学として論じる時にどこをベースに置くかというのは、実は世界に向けて説明しようとすると、日本型をあまりベースにしていると何を言っているのということになるけれども、少なくとも日本で行う時にはそこのところをクリアにしないと、おそらく日本の中で何をやっているのということになります。

 私たちはどうしてもいろいろな学会で欧米系を後追いしてしまいますが、開発途上国においては、おそらく欧米のような格好で直接民主主義が働いていて、発言の自由で、政府を批判できる自由を持っている国は逆に少ないかもしれません。そういう状況下では、日本の社会を一つかませたほうが、世界的には実は汎用性が持てるのではないかと思っています。そんな感じです。

伊里
 以前、志田先生がリスクを考えることは人間と社会の営みそのものを考えることだと言っていたとおりですね(参考:リスク共生社会創造センター2018年報、p32)。