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リスク共生のフレームワーク論 - Column - リスク共生社会創造センター|横浜国立大学

Column

Column 04 リスク共生対話 

『リスク共生のこれまでとこれからを徹底的に語り合う』第5回(2024.05.08 掲載)リスク共生のフレームワーク論

対談:野口和彦/澁谷忠弘 聞き手:伊里友一朗

伊里
 コミュニケーションの話が出たのでそれに関連してお話を伺いたいです。たとえば火災爆発の世界だと、火災・爆発事故で着火原因が特定できないときの着火源はだいたい静電気と言われるのです。それと同じで、リスクマネジメントについても、うまくいっていないものは全部コミュニケーションの問題に押し付け過ぎていないか、と疑問に思っています。もう少し何かコミュニケーションに渡す前に、前段のリスク分析や評価の時点でもっと何かできることがあるのではないだろうか、と思っています。

野口
 僕もそう思っています。逆に言うと、コミュニケーションをきちんとすれば全部がうまくいくわけではありません。基本的に、個々人が考えるということの必要性を強調しなければいけません。

 これまで色々な人とリスクについて意見交換してきましたが、リスクについて深くまで考えられている人は多くはない。どこかの概念を借りてきて、例えば火災・爆発リスクと言うけれども、火災・爆発リスクの何が問題なのかということさえ考えていなくて、借りてきた概念の火災・爆発リスクという概念を疑わずに学んでいる。それを学ぶことが、そのまま安全に直結するというような思考で、どんどん人の敷いたレールの中を動いているだけのような気がしています。

 火災爆発の何が問題なのか。ハインリッヒは物事の起こる可能性と被害の大きさと、そこに人が存在する可能性をかけてハインリッヒのリスクとして整理している。ハインリッヒの考えだと爆発が起きてもそこに人がいなければリスクはゼロなのです。では、人がいなければ爆発は起きても今の社会ではいいのか、ということをきちんと考えなければいけない。それは爆発した被害の大きさが問題なのか、起こりやすさが問題なのかということさえ、実はきちんと考えなければいけないことなのです。

 しかし、何となくリスクというと発生確率を計算することというような刷り込みの下で、自分で考えずに決められたルールの中にぽんと入り込んできてリスク分析を行っています。今の民間のいろいろなリスク分析者もそういう格好になっている場合もあります。

 原子力では、炉心損傷の計算をすることがリスク計算をすることだと思っていたり、人の健康、人への影響はどうなのかというと、すぐに放射線被害というところしか考えなかったりという傾向があり、原子力は放射線被害を起こさなければ何の問題もないかのような議論になっていたこともあります。

 きちんと考えればそのようなことはないのに、そういうものだという、誰かがつくったリスクフレームの枠組みを受け入れて、そこで作業をすることが今のリスク分析者の仕事になっているというところに、私は非常に危機感を持っています。

伊里
 考えることが大事なのはそのとおりなのですが、ある意味学問というのは思考を省略化していくとか、省力化するために作られていくのだ、ということを言う人もいます。フレームワークというのはまさにそのためのものであり、考えなくてもそのとおりにやればいいというガイドラインを求められている。やはり考えるのがしんどいから考えない方向を望んでいるのではないかと思います。

野口
 作業はそうです。だから作業を簡略化するために学問があるというのはそのとおりかもしれませんが、考えることを省略することが学問としての進化ではありません。

澁谷
 それ(省力化するための活動)は学術です。僕の中ではそれは学術で、学術と学問を明確に使い分けないとそういう混乱が起こると思います。先ほどのフレームなどのように、考えるプロセスを省力化していき、必要なスキルを身に付けるのが学術だとすると、学問というのは問いを学ぶところなので、考えて何が問題かというのを問い続けることが学問なのです。ある意味、フレームを学問だと言っている人は学問をしていないのです。

野口
 そうですね。デバイスというものがありますね。例えば昔、シンクタンクにいた頃、あの時は右脳・左脳(直感脳・論理脳)というものが流行ったときがあったのですが、部下たちは私を完全に右脳の人だと思っていて、直感力でものを言っていると思っていたらしいのです。それで、部下たちが持ってきたテストをやってみると、僕は完全に左脳型だったのです。どこまでそのテストに信憑性があるかは知りませんが……。

デバイスはここから信号が入ると、中のいろいろなことをああだ、こうだ、と回路を回りながら結果が出てきます。だからその回路に箱をかぶせると、実はあたかもインプットを入れた瞬間にアウトプットが出てくるように見えて、直感的だ、とかひらめきだ、といいますが、デバイスの中ではきちんと論理が動いていることを忘れられがちです。早い思考回路と省略は同じではないと思います。

 もっと言うと、フレームの中で人の言ったとおりのことを行うのは作業であり、少なくとも研究ではありません。私は世の中一般の人たちに、作業の時に考えろと言っているわけではなく、少なくともリスクというものを考える人にはしっかりとリスクを考えてくれないと困ると言っているのです。そこを作業でやられてしまうと、昔使ったノウハウ、フレームをそのまま使うだけになってしまうことになります。しかし、それらの方法は昔の状況に応じてつくられているものだから、これだけ大きく変化している中で、昔のフレームがそのまま使えるわけがないというのが僕の基本的な考え方です。

伊里
 目的すらも作業で決めたいと思っている人がやはりいて、そういう人たちの観点でリスク共生を評価されると、自動的に目的が決まらないので役に立たない仕組み、という感じになってしまうのです。

野口
 だからリスク共生というものを徹底的にプラグマティズムにして、逆に目的をきちんと設定してくれたら、何がポイントかというのを出します、というところまではリスク共生が到達する可能性はあります。しかし、そんなに自動的に解が出ることが重要か、と問いたい。私は、目的が社会というものの中で決められないというところで悩んでいます。個々の解法がリスク共生のネックになるとは思っていません。だから、目的さえ明確にしていたら、リスク共生はいわゆる最適解を出せると思うよという感じはあります。