Column 04 リスク共生対話
『リスク共生のこれまでとこれからを徹底的に語り合う』第4回(2024.04.22 掲載)学問および実務、それぞれのリスク共生
対談:野口和彦/澁谷忠弘 聞き手:伊里友一朗
野口:
リスク共生は大きい話をすると、最終的には哲学論になったり、人類進化論にまでつながったりしていく話なのです。要するに、こちらのリスクとあちらのリスクでは、こちらのリスクが大事だというのは、人間の考え方の問題であるわけです。人間社会では例えば人類が地球にいなければいけないと思うから、地球温暖化は大変で問題なのですが、宇宙に出ていってしまえるということになると、地球温暖化は人類にとって大した問題ではなくなります。だから、そのように、どこまでどういう前提でものを考えるかによって、実はリスクは大きく変わってしまうのです。あまり大きな話をするとみんなから、ふうん、頑張ってね、でおしまいになるから、何となくみんなの興味を引きつけながら展開するというのは、ある種のテクニックが必要なのだろうと思いますが。
澁谷:
でも、先生がおっしゃった哲学というのはまさにそのとおりで、今はうちのセンターで、学術変革としてリスク共生を考えたいな、と思っているのは、まさにその哲学の部分を前面に出したいと考えているからです。やはり、今の学術というのは、哲学からいろいろな形で分岐していき、細分化して、今はタコツボ化しているわけですが、それをある意味また再統合させて、一つの考え方として成立させるのがリスク共生学というところに落ち着かせたいな、というのが私の思いです。
だから哲学と言ってしまうと、また何かさかのぼっていくような感じになるので、分かれたものを再統合するようなイメージで、ここにリスク共生学を置きたいというのは、大きな夢としてはあるのです。野口先生には、うんうん、そうですか、と言われそうな気はしますが、学術会議などでそういう議論ができると、本来の学術会議の在り方という意味では大事かなと思っています。
野口:
そうですね。学問体系論から言うと、リスク共生学は学問体系の90度回転論なのです。いわゆる今までは機械、化学というようなその領域の専門知識で構成された何々学という縦軸があり、安全学やリスク学というのが横軸として、それを連なるものとして行ってきた話を、90度ぱっと回転させて、リスク学というのを縦軸にした時に、科学の学問、機械の学問、コンピューターの学問というものが全部必要だねということになります。リスク共生はいわゆる学問構造の90度回転論なのです。だから難しいです。
要は自分が主力としている学問体系をいわゆる糸とすると、縦の糸と横の糸がないと、布にならないという話をしているわけです。布になってしまえば、どちらが縦糸でも横糸でもいいのですが、そこでやはり布を作ろうという、だんだん話が歌謡曲になってしまいますが、糸で布を編もうというのがリスク共生学だと言ってもいいかもしれませんが、そういう学問体系が今までないのです。
伊里:
今の90度回転論について、自分たちが縦糸だと思っている人からすると、リスク論はただのツールの一つに過ぎないと見られがちで、そのせいでリスク共生概念の重要性について理解を得られていない、と思っています。
そこで僕が伺いたいのは、リスク共生学者というのはどのように社会問題にコミットしていけばいいのだろうか、ということです。リスク共生“研究”としては人間研究・哲学研究として好きなだけ深堀していけばよいと思うのですが、リスク共生を実務的に使いたい人たちというのは、どのように社会の諸問題にコミットすればよいのか。例えばコミュニケーションのファシリテーターになればよいのか、コンサルタント的な立ち位置になるのか、どのような立ち位置で諸問題に関わっていくのかいいのでしょうか。
野口:
プロデューサーだと思います。例えばリスク共生学の人たちというのは、もしかすると本当のお客さんは市民ではなく、専門家かもしれません。いわゆる専門家の人たちが、自分の専門だけでアップアップしている時に、この専門とこの専門をこう合わせると、こういう解が生まれますよとか、ある専門だけで行き詰まっている時に、それはそうで、こちらの意見を入れなければいけませんよというような、専門性のプロデューサー学としてはあり得るかもしれないとは思っています。
伊里:
面白いですね。そう考えると、リスク共生学はやりたいことがある人、目的がある人のための学問なのではないか、と思うのですが……。
野口:
そうです。リスク学自体がそうです。リスクという概念と普通の危険性が違うのは、やりたいことがあるという前提でリスクという概念が成立しているわけです。単なる危険性ならばやめればいいわけですから。それをなぜリスクという概念を使ってまである一部のものを許容しようとしているかというのは、やりたいことがあるからです。
伊里:
そこは結構大きいポイントだなと思っています。いろいろなシンポジウムで野口先生が受けている定番の質問は「目的によってリスクが異なるのはわかった。では、目的自体はどのように決めるのですか?」ということです。それを決めるのが、マネージャーの醍醐味で、一番大事なところだから自動的に簡単に決めるべきものではない、と返答されていたと記憶しています。だからある意味で、リスク共生学というのは、“夢をかなえる学”と言うと、おかしいかもしれませんが、“やりたいことを達成する学”とプロデュースできると、だいぶリスク共生学の存在意義をアピールしやすくなる気がします。
野口:
リスクマネジメント自体がそうです。リスクマネジメントのISO31000という規格が他のISO規格と違うのは、目的を設定していないことです。ISO14000は環境をよくするためで、ISO9000は品質をよくするため、と目的を明確にして規格が作られているのに、ISO31000だけは自分で目的を設定した上で、目的が達成できるようにリスクをきちんとマネジメントしてください、と書いてあるだけで、何が正しい目的かということは、それはマネージャーの権利として与えられているわけです。だから、そういう構造にあるのは伊里先生がおっしゃるとおりです。
だから目的があり、その目的を達成する時にリスク共生の考え方を使えば、最もその目的の達成が後悔しなくてすむような運営ができると思います、これが答えの一つかもしれません。だから、その目的をどんどん狭く取られれば、どんどんリスク共生の必要性はなくなるということになるという構造にあると思います。
ただ面白いことに組織論・政策論というのは入れ子構造になっているので、どういう目的を持てば人類は幸せになれるのかという構造論で、こういう目的を立てた時にこういうことがあり得る、こういう目的を持った時にこういうことがあり得る、だからこのためにはこういう目的であるべきだ、という目的自体もそういう多層構造で捉えることは実はできるのです。
私は、利己的に自分の夢の実現を図ることを徹底すると、結果的に社会貢献になると話したことがあります。例えば政治家でもいいですが、自分が当選して総理大臣になりたいという目的を達成しようとすると、要するに国民に指示される必要があるわけです。そうすると、自分が金儲けするというツールでは目的を達成できなくなるので国民のことを考えざるを得ない、結局、徹底的に自己利益を追求していくと実は社会貢献につながるという、こういう構造論もあり得るのです。
コンサルタントをやっていたとき、結構非常に利己的な目的を設定するクライアントがいました。その時に、社会正義を問うてもこの人は説得できません。そうすると、あなたが本当に、例えば来年の売り上げを倍増しようとすると、こういうところにも気を付けなければいけないし、こういうところにも気を付けなければいけないということを全部行ってもらうと、実は社会正義の実現に近づくのです。そういうやり方はあります。
だから、それはリスクの連携というもので、リスクの連携をきちんと整理できれば、そこのところは比較的いろいろな物事の考える整理にはなるような気がしています。物事を徹底的に突き詰めていけば、こちらのリスクとあちらのリスクは同じステージで整理できます。だから、どこから入っていくかということだけの違いにすぎないような気はしています。でも、この方法を中途半端に活用すると問題がでてくるかもしれません。