Column 04 リスク共生対話
リスク共生×国際経営論(第2シリーズ)第7回(2024.10.11 掲載)明確さと複雑さの狭間で
対談:周佐喜和/澁谷忠弘 聞き手:伊里友一朗
伊里:
コンサルの方々は作業観察と自らの理論を照らし合わせてソリューションを提案すると教えていただきました。その際に使用される理論というのは、経営学者であればある程度は統一・共有されたものがあるのでしょうか。
周佐:
もちろん、経営学の中にも理論はあります。ただし、経営学をやる人のベースが経済学なのか、社会学寄りなのかで、根本的な見方が違うので、同じ現象を見るのでも、説明や解釈が違ってきます。経済学ベースの人から見ると、なぜこの企業はこういう不合理なことをやっているのか、こんな不合理をしているとそのうち潰れてしまうから正面切って説明する価値はない、という話しが、社会学ベースの人にとってみると、こうした現象こそ組織の本質を示すものだ、と見える場合もあるわけです。
経済学をやっている人は本当に何もかも損得で考えるらしいです。例えば、結婚の経済学というのもありますし、はたまた政治の世界の護憲と改憲の議論についても、結局はどちらが得かで考える。でも、社会学ベースの人は、人間は深く考えないで周囲の人間関係や周囲での流行り廃りに流されるのが普通だ、一々深く考えていたら身がもたない、と考えたりする。
僕はずるいから、人間は複雑だから単純にいかないよ、と言っています。普通の人間は何でもかんでも金勘定していないですよね。もっとも、たまに金勘定ばかりしている、とんでもない人が出てくるのですが……。
例えば、ある企業でなぜ男女共同参画やSDGsをやっているのかと問うと「よく分からないけれども、それをやらないとお金を取れないからだ」という人もいれば「みんなやっていて、うちだけやっていないと格好悪いからやっていました」という人も実は結構いるわけです。そういう経済合理性を追求せずに、流行り廃りで物事を考えることはだらしがないことなのか、といったら僕はそうは思わないです。自分がそういう人間だというのもありますが、普通の人間ってそういうものだよね、と思います。時には計算をきちんとして、会社の中での自分の担当部署のコスト管理にシャカリキになるのだけれども、一方で、なぜSDGsを推進するのかといったら、流行だから、としか言えなかったりする。人間はそういうのを使い分けているのではないかと思います。
伊里:
価値判断をする上で損得勘定だけで本当によいのかという議論はあるにしても、それでも経済学が提供するソリューションはシンプルが故に結論も分かりやすい。これは大きな強みなのかなと思っています。複雑なものを複雑なままで考えていくと、結論も結局ぼやっとしてしまうところがあると思います。もちろん、そのほうが誠実な態度なのだと思いますが……。
経営学では、この明確さと複雑さの折り合いをどのように付けているのでしょうか。
周佐:
難しい質問ですね。でも、本質かもしれません。それは僕たちも経営学をやっていると、事例研究をやって誠実に記述しようとすればするほど、歯切れは悪くなってきます。
違う分野の例を出しますが、歴史学をやっている人で、単純な歴史法則をつくろうという人はあまりいないと思います。有名なマルクスも下部構造が上部構造を規定するという命題で有名だけれども、実はマルクスは全然そういうことは言っていないらしいですね。そういう因果関係については分かるわけがないと。実際は上部構造も下部構造も混然一体と変化しているのが歴史であって、そういうものをそのまま記述するのが歴史家です。だから、ある出来事が起こった時にこういう変化がたまたま起こっていたけれども、これこそがその出来事の原因だ、これが結果だ、といって一方的に因果関係を規定するような、それこそIMRADのような見方に反対する人は今でも多いです。
そういうIMRADに反対する考え方の代表例として、アウフヘーベンというドイツ哲学の考え方があります。IMRADの考え方だと、ある対立する考えがあったとして、もし片一方が正しい場合はもう片一方は絶対に間違いになります。だけど、そう断定してしまうと身もふたもないから、もっと一段高い次元に立って、どちらも成り立つようなことがひょっとしたら考えられないのかな、というのがアウフヘーベンです。社会科学系と言うよりも、人文系ではそういう考え方を昔から平気でしていました。
そういう話になってしまうので、特に事例研究をやっている人、社会科学の中でもエスノメソドロジーをやっているような人たちは、たぶんそれほど単純なものはできるわけがないということを信じてやっているのでしょう。
一応、経営学を含む社会科学も科学というだけあって、IMRADではないけれども、原因と結果の因果関係を付けたがります。だけれども、現実にはどちらの因果関係も成り立ち得ると考えられる場合が多いと思います。例えば経済発展と人口の関係で、どちらが原因でどちらが結果というのはいえますか?
伊里:
それはいえないと思います。
周佐:
いえませんよね。ある意味で人口は経済発展の結果かもしれないし、ひょっとすると原因かもしれません。今、日本で人口が減るのでまずいと言っている人は、人口動態は経済発展の原因の変数だと思ってそのように言っていると思います。でも、歴史を見ている人たちは、産業革命で人口が増えたよね、という話しもしていて、そうした場合には経済動向が人口動態に先駆けるという前提に立って考えていると思います。
澁谷:
本当にそのとおりだと思います。
周佐:
歴史学をやっている人は、どの因果関係が正しいのかを厳密に論証しようと考えても仕方ないから、まずは記述してみましょうと考えていると思います。人口で歴史を説明する人はいるけれども、その人も単一の因果関係の存在を頑なに信じているのではなくて、取りあえず作業仮説として、こういう原因がこういう結果を引き起こすと想定すると何か面白いことがいえるかもしれない、くらいでやっているのだと思います。決して、単一の因果関係がすべての現象を説明できるとは思っていないと思いますよ。
そういう風にしないとリスク共生学もリスク共生にならないですよね。結論はこうだ、全部この通りにしろだなんて言ったら、もう……。
伊里:
そうなのです。でも、そうすると物言いの歯切れが悪くなってしまって……。