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社会科学は役に立つ? - Column - リスク共生社会創造センター|横浜国立大学

Column

Column 04 リスク共生対話 

リスク共生×国際経営論(第2シリーズ)第5回(2024.09.19 掲載)社会科学は役に立つ?

対談:周佐喜和/澁谷忠弘 聞き手:伊里友一朗

伊里:
 経営学が提供するソリューションについて伺いました。その過程でプラグマティックに役に立つ、という言葉がありました。どういったことを勉強すると、「これは役に立つな」と学生は実感するのでしょうか。

周佐:
 こういう話をしていると本当は楽しいから、つい脱線してしまうのですが、いいですか?

伊里:
 時間が足りなくなったら第2回目をやります。

周佐:
 それはもう覚悟しています。

 まず論文を書く時に、セオリティカルインプリケーションとプラクティカルインプリケーションの両方を書かないといけません。学会によっては、論文のフォーマットは分野で大体、決まっていますよね。この点で、少し理系と文系が違うと思うのは、理系だとIMRAD※1という形式が牛耳っているけれども、文系は前提になるお話が、俗に言うつかみや先行研究のところが理系と比べると長いのです。一言で社会科学と言っても。

 要は人間の社会をどう見るかという大きな前提が、社会科学と一言で言っても、分野ごとにかなり異なっているからです。例えば経済学だと、社会とは、欲張りの個人が効用を最大化するプロセスで成り立っていると見ています。ところが、志田先生がやっている社会学だと、乱暴に言うと、社会は基本的には「しがらみ」から成り立っていると考えます。個人は、社会の中のさまざまな「しがらみ」に、考え方や行動を縛られているのが基本だと考えます。この二つの考え方は、本質的なところで違っていると思います。人が「しがらみ」に縛られるのは、その方が生きていく上で得になるという「打算」、つまり「効用」の計算結果によるものだ(ただし、知識不足のために正しい計算ができない人もいることは想定できるでしょう)と経済学者の人は言うでしょう。しかし、社会学者に言わせると「しがらみ」はそういうものではない、自分でも訳が分からないけれども、「しがらみ」で考え方や行動が縛られているのが普通なんだと考える。それを「打算」として説明してしまうのは、本質が分かっていないのだということになる。そこで、自分はどちらの立場から見るのか、を冒頭で宣言しておこないと、議論が全然かみ合わなくなってしまう怖れがあります。

 このように言うと、社会学では現実の記述はできても、実践的なインプリケーションは導けないのでは、と考える人が多いかもしれませんが、そういうことではありません。例えば、うちの都市科学部の藤掛先生がやっている人類学で、彼女はパラグアイに出ていって現地の社会を調べています。

(*以下の説明は、藤掛先生の研究内容に即したものではなく、人類学と他の社会科学分野との関係を例示的に扱ったものですので、その点をご注意ください。)

 人類学というと、近代合理主義が浸透していない社会を対象にしているので、なかなか実践的に役立つ知見は得られないだろうと考える人が多いかもしれませんが、実はプラグマティックなインプリケーションを導くことができます。例えば開発援助をする時に、どこに金を渡せばきちんと必要なところに渡るのかということ。経済学や政治学など、近代合理主義を前提にするものでは、例えば官僚や政府のお役所に渡せばよいと考える。それがうまくいかないのは組織設計が悪いのだという見方をします。しかし、人類学者はそうは見なくて、たとえ未開の組織であったとしても、今の官僚組織がやっている代替物があるはずだと考える。ボランタリーの組織と僕たちは呼んでいるのですが、目的があって、目的のためにボランタリーで人がつくるのが組織だと。でも、そういう目的のもとに作られた組織がなくても、きちんとみんなで役割分担して、何となくうまくいっている社会もある。
人類学者はそういうところを見ているので、そういう近代的な組織機構がないところでも、どうやってこの社会が動いているのかなということをまさに分析できるわけです。だから、プラグマティック的に言うと、人類学をやっている人は役に立つのです。しかし、基本的な前提を共有していない政治学の人に説明しようとすると、どうしても話しが長くなってしまうでしょう。

 要は何を言いたいかというと、社会科学においては論文を書く時に自分の前提を長々と書かないと、例えば人類学のつもりで論文を書いたけれども、政治学者から学問的に見て、明後日の方向から文句が来たりする場合もあるわけです。その度合が社会科学は、人文もそうかもしれませんが、やはり自然科学と違うところです。自然科学は前提をすっ飛ばせます。いちいち説明しなくても。多くのことが共通の前提として認識されているからです。しかし、社会科学のような文系の学問では、前提となっていることをよくよく言わないと話が通じません。ただし、自分の学問が依拠する前提をいちいち説明するのは当然ながら面倒くさいので、それを共有できるコミュニティに閉じこもりやすい傾向が出てきます。つまり、文系の学問のほうがタコツボ化しやすいということです。そこで、文系の学問をしている人は、自分のやっていることを他の人に分かってもらおうとすると、俗に言うつかみや落語の枕のような先行研究のところが長くなってしまうのです。

 それと同時に後のほうも長くなってしまって、結論やインプリケーションの部分もシンプルではなくなってきます。インプリケーションのところで、自分はこういうプラクティカルなインプリケーションを持っていますと言うときに、学際的な視点から主張しようとすると、他の学問分野が依拠する大前提のところから説明したのでは、どうしても説明が長くなります。たとえば、先ほどの人類学の研究の場合だと、「政治学の皆さん、遅れている国をばかにしているだけでは開発援助なんてできませんよ。世の中はこういう仕組みもあるのだから、そこを理解すると開発援助がうまくいきますよね。」と言うことになりますが、近代合理主義が人類の進歩のゴールだと前提している人たちを説得するには、どうしても説明が長くなりますよね。

 大分、話しが遠回りしたようですが、一見すると世の中の役に立ちそうもないと思われる学問領域でも、実践的なインプリケーションを求めることは可能だと思います。そういう研究の伝統がたぶんアメリカにあるのだろうと思っています。



※1 IMRAD:科学技術論文の伝統的な形式の一つ。序論 (Introduction)、材料と方法 (Materials and Methods)、結果と考察 (Results and Discussion)、結論(Conclusion)の4つで文章を構成する形式のこと。