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「参加」の敷居を低くする発想転換と「コミュニカティブ・スペース」づくり -総合防災、まちづくりと四面会議システム(前編) - Column - リスク共生社会創造センター|横浜国立大学

Column

Column 05 超学際研究:社会課題への新たなアプローチ

第2回(2024.12.11 掲載)「参加」の敷居を低くする発想転換と「コミュニカティブ・スペース」づくり -総合防災、まちづくりと四面会議システム(前編)

岡田 憲夫関西学院大学 災害復興制度研究所

はじめに

 私は長年にわたって都市計画やまちづくり、特に総合防災や山間過疎コミュニティの地域おこしに関わってきた。20代、30代の若い時は数理科学やシステム論的理論研究が中心であった。しかし40代に入り鳥取大学で社会開発システム工学科を立ち上げる仕事に携わってからは、自発的な住民有志の地域活性化に関わるようになった。自ずからフィールドでの実践的研究アプローチがもう一つの柱となってきた。結果的に、ある意味「両刀使い」というか、実践から理論、理論から実践の往復運動を目指している。

 そこで、私を知る方の中では、当方は「参加」の理論や実践に詳しい専門家と見る向きも少なくないかもしれない。普段はそのように受け止められてもそのまま済ませているが、内心では少なからず違和感を抱いてきたのである。本稿ではそこを掘り起こすところから話を始めたい。

「参加」は当たり前のことなのか?

 私たちの日常の暮らしで、何かに「参加する」ということ自体がいささか敷居が高いことではないか。そう感じることが少なくない。「いや、そんなことはない。今では参加型アプローチは都市計画やまちづくりでは当たり前になっているではないか。なにしろ我が国も市民参加は当たり前になってきているのだから」、そのような反論ももっともに聞こえる。しかし、現実には、「もっと参加してもらう」にはどうしたら良いのかに苦慮している「参加の場づくり」の担当者や専門家は少なくないのではないか。「参加」とは、主体的にその活動や集まりに加わることと捉えるのであれば「参加してもらう」ということ自体が言語矛盾かもしれない。特に「市民参加」というときには、「市民」という自覚がない自分には、ハードルが高いことと思ってしまうこともあろう。「当事者参加」の場合は、そもそも「当事者」として責任をもってその活動や集まりに関与できるのかと自問して構えてしまっても不思議ではない。「参加」という漢語自体が私たち日本人にいまひとつピンと来ないということも関係していそうである。ことばの真意が身体的に入ってこないのである。

入れて、寄せて、混ぜてから入る参加

 ここで私の小さなこども時代の体験を紹介したい。思えばもう70年ほど前のことである。北陸の富山市で小学二年生の一学期を終えたばかりの幼い少年は父の転勤で大阪府の近郊のまちの小学校に転校になった。当時は、北陸と関西、地方と都会ではことばも風習もずいぶんと異なっていた。毎日がある種の試練の場であったが、最初の難題は近所の子供たちが外で遊んでいる、その輪(仲間)にどうすれば入っていけるかだった。意を決して発したことばが、「混ぜて!」 「ええ~ 何を混ぜるの?!」つぎの瞬間に子供たちの残酷・冷酷な嘲笑が返ってきた。でもすぐに友好的な助け舟が入った。「寄せて! ということやな。いいよ、入れてやる」。このような瞬間的な通過儀礼のようなやり取りがあった後、私は「輪に入る」ことを承認された。いや、翌日からは、そこに行けば(居れば)、共に遊べる(何かをする)仲間がいて、自然に輪に入ることができるようになったのである。もう少し学年が上がると、互いに名前も良く知らなくても何かのきっかけでそこに居合わせることが起こる。しばらく言葉を交わしているうちに、新しい仲間のような関係が生まれることも体験した。

居合わせれば既に加わっていることになるという参加

 ずっと後になって、私は地域コミュニティの活性化や総合防災のためのまちづくりなどを研究し実践するようになった。小学校時代の体験と体得が、参加という専門的なことば(漢語)で呼ばれることに関係し、今の時代の社会的実践の核心的な知恵・ノウハウに通じていることに気づいてきた。広い意味での参加型アプローチの知識技術とも呼べるかもしれないことを再確認し、追体験することにもなった。同時に、地域の人たちといっしょになって「共に居合わせ仲間を作りつづける営み」こそが、我が国にフィットした参加型アプローチの原点であり、原型とみなせるのではないかと確信するようになった。そのような居合わせのコミュニケーションを続けていくと、しだいに何かをいっしょに作り上げることにつながっていく。ささやかでも何かが生まれることで小さく変わることにもなる。そう自覚するようになった私は鳥取県智頭町のゼロ分のイチ町おこし運動や災害に備えるまちづくりなどの現場において、実践と理論の両面から、日本人になじみやすい参加型アプローチの方法論の開発を進めてきた。その方法論を名付けて「四面会議システム」という1),2),3)

 先に結論を言ってしまうと、このようにして生まれ発展してきた「四面会議システム」は、けっして日本に限定された特殊なアプローチではなく、アジア、中南米、さらには欧米諸国でも十分に使えることが実例を通して分かってきている。特徴的なことは、「共に居合わせ仲間を作りつづける営み」に重点があり、それ以上の条件を設けずに始めてやり続けられるかが試される点にある。したがって「欧米先進国型」、あるいは「正統的な参加型」のアプローチ(と私たちが思い込んでいるやり方)のように、やたら入口を狭くし、敷居を高くすることはしない[注]。つまり、参加の前提として市民や当事者としての自覚や認識があること、自身の明確な意見や主張があり、ことばで表現できること、などを掲げることはしない。これが「共に居合わせ仲間を作りつづける営み」の秘訣なのである。

[注] これと対照的に「正統的参加」の理論としては、たとえばLeave & Wegner (1998)による「正統的周辺参加」(Legitimate peripheral participation)が参考になる。新参者が中心にいる古参者の共同体に実践的に関わっていく図式が想定されている。

Lave,Jean, and Wenger,Etienne (1991): Situated Learning: Legitimate Peripheral Participation, Cambridge University Press, ISBN 0-521-42374-0

アナロジー: 陣地とり、席とりから始まるお花見

 日本人(あるいは日本に長く住む外国人)の多くは、お花見ならではの独特の陣地とり、席とりをした体験があるはずだ。私はこれがとても分かりやすい「共に居合わせ一緒に何かをして仲間意識を高める」コミュニケーションの場づくりであると考えている。アナロジーとしてこういう場面を想像してみよう。花見に適したところに早めに出かけて、四角い茣蓙(ござ)かビニールのシートを地面に広げて敷く。敷物の縁(ふち)に小さな荷物や袋、その他小物を置いて飛ばないように固定する。同時にこれはそこに居合わせることを表明(コミット)した人それぞれの席を象徴している。敷物の真ん中には旗立てがポールのように置かれていて、そこに居合わせ寄り合う人たちが目指すゴールか何かが書かれている。そこで繰り広げられであろう趣旨が示されているのである。宴が始まっていても遅れてきた人も自然に加わることができる。輪に入るためには「寄せて」、「もちろん、入って」というやり取りで十分なのだ。もっと宴が盛り上がってくると、たまたま通りかかった人や見知らぬ人でも同じようにして輪に加わることは十分にありうる。このようにこのお花見モデルはある意味、陣地とり(テリトリーゲーム)でもあるが、きわめてオープンで垣根があまりなく、敷居が低い寄り合いの場なのである。しかもそこに居合わせる人たちの振る舞いに応じてダイナミックに変化・成長するコミュニケーションの場なのだ。「コミュニカティブ・スペース」と呼ぶことにしよう。

 でもこれが正統な「参加型アプローチ」なのかと反問してみよう。いや、そんな大層なことではない。共に居合わせ、寄り合っているだけなのだから。だが、そのような機会がきっかけで、もっともっと仲間意識が強くなり、ともに居合わせ、寄り合って共に一緒に何かを仕上げる。そこで終わらず、またその先にもう少し高いゴールや新しいゴールを見つけて同じことを繰り返す。結果的に「共に居合わせ一緒に何かをして仲間意識を高める」ことにもなる。一方でゴールを共に目指す仲間づくりをしていることにもなる。それで何か新しいもの・ことが自分たちの中と周囲(まわりの社会)に生まれることになるのだ。であれば、どんなにささやかで小さくても「事起こし」であろう。言いかえれば「社会変革(social innovation)」でもあり、社会的起業(social enterprise)につながることにもなりうるのである。

 お花見から社会変革、社会的起業は少し飛躍が過ぎるであろう。そもそも「お花見」自体がある意味で比喩である。しかし、人が共に居合わせるためにはそれなりの口実やきっかけが必要である。またそのためには巧みな呼びかけ人やお節介好きがいるかどうかも大きい。私は最初のきっかけづくりをする人を「事起こしの最初の一人」と呼ぶことにしている3)

(→後編へ続く)

参考文献

  • 1)羅貞一・岡田憲夫(2009): 『四面会議システムで行う知識の行動化形成過程の 構造化検証に関 する基礎的な研究』  京都大学防災研究所年報.B 52 105-17.
  • 2)羅貞一・岡田憲夫(2011):『メラピ火山地域コミュニティの参加型防災行動計画づくりを支援する四面会議技法』日本シミュレーション&ゲーミング学会全国大会論文報告集2011年秋号 25-26.
  • 3)岡田憲夫(2015): 『ひとりから始める事起こしのすすめ-地域(マチ)復興のためのゼロからの挑戦と実践システム理論 鳥取県智頭町30年の地域経営モデル』, 関西学院大学出版会.