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リスク共生から見たサイエンスとELSI*について - Column - リスク共生社会創造センター|横浜国立大学

Column

Column 04 リスク共生対話 

『リスク共生のこれまでとこれからを徹底的に語り合う』第7回(2024.05.20 掲載)リスク共生から見たサイエンスとELSI*について

対談:野口和彦/澁谷忠弘 聞き手:伊里友一朗

*ELSI:倫理的・法的・社会的課題(Ethical, Legal and Social Issues)の頭文字をとったもの



伊里
 サイエンティストは政治的中立であるというのが理想と思われていました。しかし、最近は政治的中立で片付けられるような問題はだいたい解決されていて、結果的に特定の政治的思想を支持することになるなど、サイエンティストが純粋に学問に取り組んでいるのだ、と無邪気に何かに取り組める時代ではなくなったと思うのです。これからはリスク共生学者も社会の価値観や政治的信念に強く影響を受けることが増えると思いますが、この点に関して何かお考えはありますか。

野口
 リスク共生というのは、あくまでも僕は手法の一つだとしか思っていないので、僕自身はリスク共生学者のつもりは全くないです。サイエンティストというのは、サイエンスという物事の手法を使いこなす人のことなので、サイエンティストということと中立ということは、あまり因果関係はありませんよね。客観的でないということには関係しますが。

澁谷
 ないですけれども、サイエンティフィックな事実というのがある種、先ほどもおっしゃっていたエビデンスとして信奉されているというか、それは何らかの政治信念に絡んだものではなく、サイエンティフィックな事実として受け入れられるというのがあると思うのです。

野口
 私はサイエンティストの大きな課題は何かというと、あるものを議論するために必要なサイエンスの情報を整理できているのか、というところだと思います。論理学というのは不思議なもので、ある種の都合のいい情報だけで議論しようと思うと、その論理はその都合の良い情報の枠内で成り立ってしまうのです。だから危ないのは、物事をきちんと多面的に整理して、客観的に出さなくてはいけないのに、ある面だけ客観性がありますよ、という情報を出してしまうと、その視点だけで物事全体が伝えられてしまうという怖さがあります。そこに気付くことが大事です。

 今までのサイエンティストの人たちは、自分のこれが専門だから、これ以外のことは誰かが言うでしょうという暗黙の了解に立っていた。この前提で「こういうことがあればこういうことができる」と言っただけで、他のことに関しては言っていません、というような姿勢が多かった様な気がします。しかし、そろそろサイエンティストというのも、自分の言ったことによる影響までは考えてくれないといけない。そういう意味では、サイエンティストであればあるほど、自分のやっている学問を客観的に見る、客観的な視点できちんと物事を見極めて、自分の言っていることの社会の視点で位置付けをする大事、これはリスク共生の一部でも大事な視点だと思っています。

澁谷
 科学者が言ったことに対して責任を持たなければいけないというのは、おっしゃるとおりなのですが、それは科学者だけに求めるのも酷な話だと思います。実はそれを鍛える社会、相手がないと、実は科学者もそういう素養を身に付けられないと思っています。そこが実はまさにコミュニケーションだと思っているのです。要するに、科学者と社会の間のコミュニケーションの在り方という意味です。

 先ほど伊里先生が、何でもかんでもコミュニケーションの問題に押しつけるのは問題だという話がありましたが、コミュニケーションはあくまでも最後のパーツでしかないのです。コミュニケーションがないと成立しないのですが、別にコミュニケーションだけで何かが解決することは一切ありません。先ほどのリスク分析の結果がきちんとしていなければ駄目だよねという話なのですが、実はそのきちんとしていないリスク分析を受け入れているのも、そちらのコミュニケーションの側の問題点というのもあります。だから、やはりそれを跳ね返してきちんとしたものを持ってきなさいと言えるような、コミュニケーションの場や、テクニックと言ってはあれですが要するにスキルや素養というのを身に付けていくということも、多分大事なのだろうと思っています。

野口
 それから、やはり役割分担はあると思います。

澁谷
 はい。役割分担はあります。

野口
 私は、一生懸命に大学教育で言うべきなのは、科学者は人間であれ、というところだと思っています。繰り返し言うけれども、私は工学というのは文理融合の学問だと思っているので、現象論だけでは工学は成立しません。人は何を欲しがっているか、どのような感情や心理で動くのかという、社会にどのような影響を与えるかという社会論をなくして工学は本来成立しないはずなのです。しかし、いつの間にか工学が“理系”と言われるようになってしまった。僕はそれに対して「は?」という感じがあります。やはり、基本的に科学者は人間であるべきだけれども、澁谷先生がおっしゃるように、人間であるから自分がやっていることが分からないということはありますよね。それを補佐するのが、ある種の組織構造であったり社会構造であったりだと思っていて、そういうものをつくらないといけないと思っています。

 だから今リスク論から言うと、科学技術のリスク論は何が抜けているかというと、科学技術のステップ跳躍論のようなものがあり、ある技術ができると次の技術がそれを母体にぼんぼんとできてくるのです。科学技術のリスクを考える時は、実はそういう構造のリスク論で展開しなければいけないのに、今の時点でのレベルの技術だとそれほど大きな影響はないという状況だと、その時点での技術のリスク論に終始してその技術がもたらす先の可能性に対する議論まで行き着かないという問題があります。この技術が生み出す可能性に対して言及しないから、どんどんすごいことになってしまうという、もういいかげんに気付けよという感想はあります。何かそこら辺を知らないふりをしたり、無邪気なふりをしたりして、自分の今やっている目の前の技術のリスクしか考えなくて、その技術が呼び起こすであろう可能性に対して目をつぶり続けているような気がします。今の技術の進展はどんどん速くなっています。これはさすがに何とかしないと危ないと思います。それ考えるのをELSI (Ethics, Legal, Societal Issues)という視点での検討を行なうことになるのですが・・・。

 しかしELSIもいつの間にか社会受容論に変わっていて、ELSIの研究と言いながら、例えば、新しい技術に対してアンケートを取ったら受容性がこうでした、とか議論で終っている場合もあります。それは消費者がいいと言えば良いという、そんなELSIがどこにあるのだという話をしたことがあります。もともと科学技術の倫理性や社会性というのは、技術の持っているポテンシャルを評価しようとしているわけで、それをポテンシャルではなくて、今の製品で評価してどうするのだ、という話をしているのですが・・・。

澁谷
 あれは社会受容をするためのELSIなのです。もともとの歴史がそういう歴史なので、ELSI論の多分一番の欠点はそこかなと思います。やはりもともと遺伝子などの、いわゆるバイオテクノロジーに対する倫理観の批判という視点で始まっていますから、そういう観点で言うと、社会受容するためのELSIという位置付けになってしまっているので、本当にそれが正しいのかというと、それは少し違うのではないかというのは、やはりリスク共生の視点で言えるのではないかと思います。

野口
 リスク共生では、リスクマネジメント論は分析したリスクを基に判断しようと言っているので、先に結論を決めてはいけないということです。これは、リスクマネジメント自体の一丁目一番地でもありますが。だからリスク論を使って、安全だと言いたいのであれば、まず、安全を判断するためのリスクや分析前提を整理する必要があります。安全だということを主張するための有効なエビデンスをリスク論で集めても、そのリスクを体系的に把握したことにはなりません。そのような使い方をするとリスクマネジメント論の自殺行為なので、それだけはやめてよと言っています。そんなリスク論を誰が信用するでしょうか。リスクを分析した結果で判断しろ、と言うのですが、それはなかなか難しそうです。

伊里
 リスクマネジメントを実施した結果から、目的が否定される結果が出てくることもあると思います。当初の目的を達成したいと思っている人にとっては、これを効率的に達成するためにリスクマネジメントを実施したのに、それ自体をやめろ、という結果が返ってくるというのは、それはそれでいいことだとは私は思いますが、リスク論の有効性を喧伝する上で結構苦しい立ち位置かなと思うのですが。

野口
 それは人間ドックを否定する考え方です。例えば僕はこれから10年間頑張らなくてはいけないから、健康な体であるかどうかチェックします。そして人間ドックで、実はあなたは癌ですというのが分かったとします。それは悪いことかというと、そういう弱点を知らずに走っていくほうがよほど悲劇なのです。だから、やりたいという目的の設定はいいのですが、リスクマネジメントから出てきた可能性に対して目をつぶるということは、全く目的遂行の面からも間違いです。

野口
 2018年度版のISO31000では、リスク評価の結果で目的を再考するというステップを入れたのです。事前に目的を決めて、PDCAをぐるっと回す過程で、これまで目的は不変だということでやってきたけれども、PDCAを回すうちに目的自体を変えるという選択肢もあるのではないか、という話をISOの委員会で議論をして、そのステップを入れようということになりました。マネジメント論として、目的を再考する、考え直すというのがリスク評価の候補に初めて入りました。だから、本当のマネジメント論はそうものだと思っています。だから、何がどうあってもやると決めているのであれば、初めからリスク分析する必要はないということです。

澁谷
 そのとおりなのです。リスクが小さいということを示すためにリスクマネジメントをするというのは、実はほとんど意味がなくて、それならば勝手にやってくださいという話なのです。もともと決まった結論があるのであれば、別にリスクマネジメントをする必要は全くありません。

野口
 だからリスク共生学は、ある種の社会の人間ドック論かもしれなくて、リスクマネジメント自体が医者の診察技術のようなものなのです。だから、そこで不完全なリスク分析をやるということは、患者を危険にさらすという話と一緒です。