Column 04 リスク共生対話
リスク共生×国際経営論(第2シリーズ)第1回(2024.07.31 掲載)国際経営論とリスク
対談:周佐喜和/澁谷忠弘 聞き手:伊里友一朗
伊里:
今日はリスク共生対話の第2回ということで、「リスク共生×国際経営論」というテーマで、国際経営論の専門家である周佐喜和先生とリスク共生社会創造センター長の澁谷忠弘先生にお越しいただいております。本日は周佐先生がゲストですから、話題の脱線もありありで、自由に議論できればと思います。
最初にお約束の質問みたいで恐縮ですが、周佐先生のご専門の国際経営論について、簡単には説明できないことは承知の上で、簡単にご説明いただいてもよろしいでしょうか。
周佐:
最近こういう本を共著で書きました(トピックスで読み解く国際経営、文眞堂)。国際経営論の学部用の教科書として3人で編集して書いたものです。私はろくろく書いていないのですが、そこにいろいろなことが書いてあって、「国際経営とは何か」というのを一応、最初のほうに書きました。国際経営論はもともと多国籍企業論から始まっていて、国境を越えて大きくなっていく会社が、企業があるよねと。なぜそういうことができるのかな、というのを研究する分野なのです。昔は国境を越えると、普通、独占企業は国内で威張っているけれども、外へ出たら内弁慶というようなところも多かったのですが、だんだんアメリカの会社を筆頭に、一部の企業が内弁慶ではなくて、本当に世界中を牛耳ってしまうのではないかということになってきて、乱暴に言うと、そういう独占企業の理論として始まったわけです。
そのうちにどうなったかというと、アメリカならアメリカで、そういう特定の独占企業だけが外に出ていって成長していくわけでもなさそうだとわかってきた。アメリカ以外の国からも海外に進出して存在感をだすところも出てきた。その中には、国内では負けっぱなしのような企業であっても、海外に出ていって顕著な成長をみせるところも出てきた。だから、今となっては、それほど大独占企業ではなくても、普通の会社でも海外に出ていますよねと、そういう企業のことを研究しましょうという学問になってきています。
その時にキーワードになるのが「普通は外国に行ったら勝手が違うよね」ということです。皆さんは国際的に活躍されているので、国境なんてないようなものだと思っているかもしれませんが、やはりドメスティックは楽なのです。言葉も共通だし、いちいち説明しなくてもこのくらいは分かってくれるよね、という安心感がある。外国へ行くと、そうではないですよね。ドメスティックは楽で、同じことを外国でできたらすごく楽なのに、と思うけれども、それがそうはいかない。ものをつくるにせよ、人を雇うにせよ、外国に行ったらいろいろと勝手が違うので、何とかしないといけない。できれば国内と同じようみやって楽をしたいという話しと、でも国内と違うことを苦労してやらないと駄目だ、という2つの要素がある。その2つの要素をどう折り合いを付けるのかなというのが基本的なものの見方で、50年近く、そういう問題意識で議論していました。それが国際経営論です。
伊里:
ありがとうございます。少しずつ本題に入ってまいりますが、国際経営論もしくは経営学におけるリスクもしくリスクという用語の扱われ方について伺ってもよろしいですか?
周佐:
リスクとの話で言うと、先ほど申し上げた「勝手が違う」というのは実はもうリスクなのです。思ったようにいかないところがどうしても出てくるのだろうと。
もともと経営学には古典的な経済学との違いがあって、今、その差は目立たなくなっているけれども、経済学では「思ったようにいくはずだ」と考えるわけです。神の見えざる手に導かれて均衡にいくはずだから、その均衡から外れたところでやっている会社はやがて潰れていくはずであって、それはよいことなのだ、と。だって、経済という森を見るなら、森の中の一本一本の木が変な方向に生えていても、そういうものはやがていなくなるよね、で済んでしまう。一方、経営学は一本一本の木がメインなので、すべての木が均衡状態だと同じになるとは考えません。普通の均衡状態はこうだよね、とは考えないで、一本一本の木は変なこともやるだろうというわけです。変なことをやるから間違いも多くて、でも、時にはけがの功名のようなこともあって、それがまた面白いから木を見る経営学というような学問が出てきたわけです。経営学の中でも国際経営論はある意味で、思ったとおりにいかないという度合いが一番面白いかなと思っています。
伊里:
まさにリスクですね。
周佐:
だから、経営学の人たちはもう最初からリスクは当然だという考え方を取るわけです。人間は全知全能ではないから、もう最初からお見通しだという見方は絶対にしないわけです。お見通しではないから途中でまずいことも起きる。だから、実際にやってみて初めて分かることもあるし、その時にどううまくするかということを考えるのです。ただ、注意しないといけないのは、だからといって、めちゃくちゃなことだけをやっているわけでもなく、事前の計画や準備も、やはり必要だと認識している、ということです。
だから、僕たちは計画と実行と言っているのですが、計画もなしにいきなり何かをやってよい結果を出そうというのは、やはり頭が悪すぎる。それはそれでかなり無駄なことをやったり、時には大けがもしたりするから。でも、だからといって、伝統的な経済学者のように、合理的な者だったら、神様のように均衡状態を全部分かっているのだ、という風にはしない訳です。生身の人間としては、それは明らかにうそつきだ、と。生身の人間はそれほどたいしたものではないと考える。だから、経営学にリスクは最初から織り込み済みだということです。
伊里:
分かりました。ありがとうございます。もうこの時点だけで掘り下げたいキーワードを沢山いただきました。どれもこれも深めていきたい話題なのですが……、まずは澁谷先生から今の周佐先生のお話を受けていかがでしょうか?
澁谷:
われわれのリスク共生の考え方は、そもそも経営の考え方そのものではないかと思っています。いろいろな不確定な要素をリストアップしていって、どのリスクを取るかという意思決定を支援するという目的の上で、その選択肢を提供するのがわれわれのリスク共生社会創造センターのミッションです。リスクを織り込み済みでいろいろな論を進めていくという経営論や経営学というのは、ある意味、そういう意思決定を含めたマネジメントをもともと考えている分野だという認識で間違っていないですよね。
周佐:
そう思います。でも、最近は経済学も行動経済学のように、それほど最初からお見通しではないよねと。結構間違えるし、間違えることを前提にしないと駄目だよね、ということで、リスクは当然あるということはたぶん織り込み済みのはずなので、その意味では、そちらのほうに収斂(しゅうれん)しているのかなと思っています。